ピア活動の声 Bさん

Bさん 40歳代女性正社員としてフルタイム勤務
B:   今回「ピアスタッフとして働く立場からリカバリーストーリーを話してほしい」と依頼をいただきました。
 ごみ屋敷に住んでいました。それも、20年近く。

 手洗い強迫や、不潔恐怖、その他諸々の心と体の不調を抱えた私は、家から出ることも出来ず、ぼんやりと「死にたい」と思いながら日々を過ごしていました。
 これからお話するのは、私がその場所を後にするまでの物語です。


ごみ屋敷で暮らす日々

 何故、ごみ屋敷に住むことになったのか。
 最初の原因を作ったのは、母でした。買ってきたり、もらってきたりした物を、不要になっても母が捨てないため、徐々に家の中の物が増えていったのです。
 物が増えるにつれて、段々と衛生面も悪化していきました。
 私が小学生の頃は、まだ、「やや散らかった家」という域を出ていなかったと思います。しかし、私が二十歳を迎える頃には、本格的なごみ屋敷になっていったのでした。
 今思えば、母も精神的に何か抱えていたのかもしれません。

 高校卒業後、私は社会に出て働き始めました。
 しかし、すぐにつまずきます。
 周囲の気持ちや、場の雰囲気を上手く推し量ることが出来ず、職場の上司や同僚とのコミュニケーションが上手く行かなかったのです。
 振り返れば、確かに、子どもの頃からなんとなく周囲に馴染めない居心地の悪さのようなものはありました。それが大人になって、就職して、人間関係や仕事にまで影響が表れるようになったのだと思います。

 問題はそれだけではありません。
 担当する仕事も、抜けや漏れが多く、何をやるにしても心配ばかりが先に立つ日々でした。それを自分なりに防ぐために、ルーチンの作業を、数字などに置き換えて覚える工夫を編み出しました。
 しかし、今度は、作業よりも数字の方が大事なような心持ちになってきました。そしていつしか、「目の前の物を数えなければいけない」という強迫へと変わっていったのです。

 このように、私は職場の人間関係も仕事もうまくいかない状態で、二十歳を迎える頃には、精神的にもかなり追い込まれていきました。一方で家は、本格的なごみ屋敷と化していたのです。

 気が付くと、人や社会が怖くなり、家から出られなくなっていました。当然、仕事も辞めざるをえなくなりました。
 その頃には、強迫観念に囚われているだけでなく、パニック症状や、過敏性腸症候群、メニエール症などの症状も出現するようになっていました。更には、体中に原因不明の湿疹ができ、ひどいと横になることができないほどの状態になっていました。こういった一連の症状が、精神的なものから来ているのか、家の衛生環境から来ているのかは、もはや、もうわからなくなっていました。

 その頃の私には、自分自身が汚い物に思えてなりませんでした。
 そのため、入浴や、洗濯や、手洗いに相当長い時間をかけ、不潔恐怖や手洗い強迫に悩まされることとなりました。
 その一方で、徐々に何をするのも億劫になり起き上がることすらも面倒になりました。トイレも行くのもぎりぎりまで我慢して、お風呂には入らなくなってしまいました。

 また、物に対する感覚も変化していきました。
 あらゆる物をビニール袋に包み込み、「守る」ことをするようになっていったのです。それだけでなく、新聞や商品パッケージも捨てることが出来なくなりました。
 このようにして、母の物だけでなく、私の物もどんどん増えていき、私も加わり、ごみ屋敷化が加速していきました。
 家の中にはネズミが走り、炊飯器や冷蔵庫の中には、ゴキブリやコバエといった虫が入り込んでいるような状態でした。虫は小さいので、もはや、気にならなくなっていきました。しかし、ネズミがいるのは本当に心の底から嫌でした。

 このように、私は心と体に多くの症状を抱えながら、ごみや荷物、ネズミや虫の狭間で、こたつにもぐってぼんやりと時間を過ごし、「もう、どうでもいいや」「死にたい」と日々を過ごしていました。
 当時の私には、仕事を探し、家を出て自立するなど、思い浮かべることはあっても、現実に出来ることとはとても思えませんでした。

 そんな私に、突破口が開かれます。
 精神科にかかり、「うつ病」という診断を受け、治療を始めることになったのです。
 きっかけをくれたのは、母が通う内科の主治医でした。母から私の様子を聞き、私に精神科を紹介してくださったのです。紹介に背中を押された形で受診しました。うつ病という診断を受けたときには、内心ホッとしたことを覚えています。


まだ死にたくない

 治療を受け、社会復帰を目指してデイケアに通うまでにこぎつけます。

 そこまでが大変でした。
 入浴して、身支度して、毎日決められた時間に決められた場所へ行く、ということは本当に大変なことでした。
 しんどくなると、しばらく休んで、3か月後にまたなんかとか行って、ということを何回か繰り返しました。そうやって何度も何度もチャレンジしているうちに、自分の心や体の状態が整ってきたタイミングがあり、その流れに乗って、継続して行けるようになりました。
 結局、決められた日にデイケアに行けるようになるまでには、3年程度かかりました。

 デイケアに参加し始めた当初は、緊張し、声も出せませんでした。ですが、そのうち強迫観念が少しずつ薄らいでいき、それと共に出来ることも増えていきました。それは、人の目や刺激があったからなのかもしれません。
 デイケアでは、自分たちでやりたいことを決め、モノを作ったりやイベントやお出かけなどの計画を立て、それに沿って行動しました。これは、社会復帰をするための、よい練習になったと思います。
 また、睡眠リズムが安定し、食欲もでてきて入浴もできるようになりました。
 今思うと、そういった「まずは生活を整える」という事がよかったのではないかと思います。私の場合、できる事から少しずつ行い、それを継続していったということが、遠回りなようでいて、正しい道のりだったのだと思います。
 そのようにして、デイケアの場で人間関係にもまれ、少しずつ気持ちが強くなっていきました。

 それでも、その先には踏み出せないでいた頃に、「それ」が起こりました。

 まず、私の周囲の人が立て続けに、おそらく自死で亡くなりました。「死にたい」と思っていた自分ですが、逆に周囲の人が先に逝ってしまう、そんな経験をしたのでした。

 また、これらと前後して、あの東日本大震災が起きました。
 私の住んでいる地域は、震災の直接の被害はありませんでした。それでも、地震があったときは本当に怖いと感じました。
 メディアでは、「死にたくない」と思っていたであろう多くの方々が、震災で亡くなったことを報じていました。それらを見聞きし、「死にたい」と思っていたことに対して、罪悪感を覚えました。「どうでもいい」「死にたい」と思っていた自分の方が、生き残ってしまったのですから。

 様々に思いを巡らせているうちに、私の中に、「まだ死にたくない」「こんな状態で後悔しながら死んでいくのはいやだ」「やるだけやってみたい」と思っている自分がいることに気が付きました。
そう、私の中にはまだ、「生きたい」という気持ちがあったのです。どんな仕事に就けるかわからないけれど、もうちょっと頑張ってみようと思えたのです。


ピアサポートとの出会い

 それからは色々なことが動き始めました。

 まず、私はヘルパーの資格である「初任者研修」を取得しました。デイケアに籍を置きながら、障害者向けの職業訓練に通ったのです。
 研修後は高齢者施設で働くことが決まりました。
 周囲の人からは、「あんなに手を洗ってばかりいる人にヘルパーの仕事なんか無理だろう」と言われてしまいました。
 ですが、いざやってみると、「手を洗ってばかりいる」という事実はあまり問題にはなりませんでした。例えば、目の前でお年寄りが転びそうになっている時に、「何かが気になる」とか、「手を洗いたい」とか言っている暇などありません。とにかく必死になって、仕事をしているうちに、強迫症状は薄らいでいきました。

 その頃、「ピアサポート」という活動を知りました。

 自分の経験を他者に差し出して、他者のリカバリーを支援する。そして、それがまた自分のリカバリーにも繋がる・・・そんな素晴らしい考え方があるのかと、本当に驚きました。
 引きこもって過ごした日々が、強味になるというのです。

 私はすぐにネットを検索し、千葉県のピアサポート専門員養成研修の募集を見つけ出し、文字通り飛び込んでいきました。

 デイケアの場では、お互いの症状や困り感を「わかるわかる」という風に共感しあっていたので、ピアサポートについても、そのような感じを想像していました。
 しかし、研修が始まると、そう単純ではないと気付きました。
 むしろ、過去の経験なんて本当に役に立つのだろうか?ピアでないとできないことって何だろう?そう悩むようになったのです。

 研修の中で象徴的なことがありました。
 プログラムの中で、自分のリカバリーストーリーを書くというものがありました。大抵の人が嬉々として書いていました。そしてその後、各自が障害福祉サービスの実習に行ったのですが、ほとんどの人がそのリカバリーストーリーを披露する機会がなかったというのです。
 せっかく作ったのに、どうすればよかったのか、という話しになりました。

 ところが講師たちは、「興味がない人の話なんて聞きたくないでしょう?まず、利用者さんとコミュニケーションを取って信頼関係を築かなくてはね」という話をされました。
 それを聞いた皆の反応は「えぇ?!」という感じで、納得がいかない様子でした。

 一方で、私は、そうだよね、と納得していました。
 利用者さんに求められていないのに、自分のリカバリーストーリーを一方的に話してしまっては、相手も困ってしまう。
 講師が以前、「相手から何らかの発信があって、それをこちらが受信して、そこから支援が始まる」という話をしていたことを思い出し、それはこういうことだったのだな、と自分の中で繋がりました。


 
ごみ屋敷との決別

 ピアスタッフになることについて疑問や迷いもあったのは事実です。
 しかし、結局、研修を終えた数か月後、私はヘルパーとして現在の事業所(スターアドバンス)に籍を置くことになりました。
 最初は週20~30時間の就労からでした。
 
 私が入社した事業所-現在の勤務先である「スターアドバンス」-は、ピアスタッフに対して明確な方針を持っていました。それは、「まずは支援者としての業務をきちんとこなしてください」「ピアとして個性を発揮するのは、それができるようになってからにしてください」というものでした。

 それに加え、「家が汚い人は雇用できません」という姿勢も明らかにしていました。
 この姿勢は、私の背中を押してくれることになりました。
 私自身、「ごみ屋敷に住んでいる自分が、人様の家に上がりこんで、掃除なんかしていいのか?」という疑問を内心持っていたのですから。
 入社した当初は、心も体もまったく休まることはありませんでした。
 そして、研修の時とは比べ物にならない程、精神的な負担がかかる中で仕事をし、ごみ屋敷に帰宅し、自分の嫌な面を直視しなければいけなかったのです。

 このように、念願かなってピアスタッフになった私は、「ピアスタッフにしかできないこと」を考える以前に、必死に日々の仕事やごみ屋敷と決別することに向き合う必要がありました。

 そうこうするうちに、あまりピアスタッフとしてのこだわりがなくなっていくのを感じました。
 障害で困っている人の所へ行って、困りごとを解決するのに、健常だろうがピアだろうが関係ありません。最初はピア性を活かしたいと思っていても、そこには関係なく試行錯誤が必要なことに気が付いたのです。
 「ピア性」を活かして相手のリカバリーに貢献する、というのは理想的です。しかし、人それぞれ病気や障害、特性が違いますし、そもそも自分のやり方が他の人にも通じるとは限りません。
 だんだんに、誰かの役に立てるなら、ピアでも支援者でも、どちらでもいいかなと、というのがポジションになっていきました。

 事業所に入社して2年目に、私は一人で家を出ていくことにしました。私の「普通の家に住みたい」という思いは、母には通じなかったのです。
 その後、必死に仕事をしました。
 職場の人たちを中心に、多くの方たちに沢山の助けをもらいました。
 勤務時間を徐々に増やすことができ、最終的には週5日、40時間フルタイムで働けるようになりました。正社員となりサービス管理責任者を担うようになっています。
 経済的にも、自分の所得で自立することが出来ました。
 今は「普通の部屋」に一人で住んでいます。

 自分で働いたお金で生活し、「普通の部屋」で穏やかに暮らすことで、自分に自信も持てるようになりました。


おわりに

 今回、ピアスタッフとして働く立場から、リカバリーストーリーを話してほしいと依頼をいただきました。しかし、いまだに毎日が一進一退の私は、ピアスタッフとしての役割を果たせているか、とても怪しいと言わざるを得ません。

 それでも、これからも試行錯誤を続けていくつもりです。
 それが、自分自身のリカバリーの続きになるといいな、と思っています。また、利用者さんのそんな瞬間に立ち会えたら、少しでも協力できたらいいな、と思っています。今日は、そんな気持ちでお話させて頂きました。

以上です。